「爽やかな新緑の古都を現地ガイドと巡る」
資料編
北野界わい創生会
文責:ガイド中村仁一
昔と現在の資料
「おとなび」ツアーご参加の皆様
本サイトはご案内に際し、必要な資料や画像をまとめているものです
2026年6月29日まで閲覧可能です
なお、本サイトは本ツアーご参加の皆様のみ閲覧可能となっております
(ネットで検索してもヒットしない設定”noindex”です)
【清水寺】
これまでの400年、これからの400年
江戸時代
『都名所図会』(国際日本文化研究センター)
『都林泉名勝図会』(国際日本文化研究センター)
清水寺の本尊を直接目にすることができるのは33年に一度
次に開帳がおこなわれるのは2033年の予定
江戸時代「清水の舞台から飛び降りた人々」のリアルな統計データ
当山・成就院に残る記録によれば、江戸時代の中期・元禄7年(1694)から明治維新直前の元治元年(1864)までの間に、未遂を含めてなんと235件もの飛び降り(当時の記録では「飛び落ち」)があったとか。
地上約12メートル、4階建てのビルに相当する清水の舞台。この高さから飛び降りて、はたして無事だったのでしょうか…。先の成就院の記録の統計によれば、生存率は約85%。かなりの人が、命を落とさずにすんでいます。
「飛び降りた人」の内訳は、10~20代の若者が53%以上を占め、最年長は80歳で最年少はなんと12歳! また70%が女性で、2度飛んで2度とも助かっている女性もいたとか。いざという時の思いきりは、昔から女性のほうがよかったのかもしれませんね。
出身地では日本全国に分散していますが、地元京都の人が70%と圧倒的多数を占めています。階級別では、武家や公家の記録はなく、若い僧侶や尼僧が約7%。飛び降りたほとんどが一般庶民でした。
現代
ひのき舞台を踏む
「平成の大修理」で張り替えられた166枚の桧板の舞台の床面積は約200平方メートル。崖下の礎石からは約13メートルの高さがあります。日本では、晴れの場所に登場することを「桧舞台を踏む」という表現をします。清水寺の桧舞台がこの言葉の語源となったかは明らかではありませんが、実際にこの舞台は特別な法会などの際に観音さまに芸能を奉納するための場所です。
清水寺のSDGs
大西:ご参詣の皆さまにはご不便もおかけしています。清水寺は1200年の歴史を持つ「文化遺産」であると同時に、観音さまの教えを伝え続ける「現在進行形の仏教寺院」でもあります。今回の改修では、一見、相反するふたつの役割を社会にご理解いただくことの重要性をあらためて実感しています。また、私たち僧侶にとっても寺院のあり方を見つめなおす良い機会でした。
島田:清水寺では将来の改修のために植林活動に取り組んでおられますね。
大西:現在でも材木の確保にはかなり苦労すると聞きますから、取り組みを始めるのが遅すぎた、という反省もあります。2000年から京北町(右京区)、花背(左京区)、舞鶴市の3ヵ所の山で欅を育てています。あと少しで樹齢20年というところです。
島田:舞台下の柱は樹齢300〜400年ですから長い道程ですね。欅材の耐久年数は樹齢の倍程度と言われています。現在の本堂は寛永6年(1629)の大火災で焼失した後に再建されたものですから、建材としての寿命はあと400年。いま育てている若木が400年後の大改修に使われるわけですね。
MICHELIN Green Guide
Kiyomizu-dera ★★★
美しい堂宇、三重塔は気品があると褒めたたえています
「清水」は”Clear water”の意味だと説明しています
創建と徳川家光による再建についても触れています
舞台の高さが20mとか、舞台から京都が一望できるなど若干話を盛って書かれています
江戸時代に願掛けで舞台から飛び降りたことにも触れられています
【産寧坂(三年坂)】
あのウワサは...
江戸時代
『拾遺都名所図会』(国際日本文化研究センター)
『花洛名勝図会』(国際日本文化研究センター)
説明文には大同三年にできたことから三年坂と名付けられた説と、
子安観音(泰産寺)に安産祈願のための参詣道にあたることから産寧坂と名付けられた説が記載
当て字、語呂合わせの命名
-
産寧(さんねい)→ 三年(さんねん)
-
三年(さんねん)→ 二年(にねん)
-
二年(にねん)→ 二寧(にねい)
- 二年(にねん)→ 一年(いちねん)
-
一年(いちねん)→ 一念(いちねん)
現代
MICHELIN Green Guide
Ninenzaka and Sannenszaka
二年坂と三年坂が清水寺の参拝者が通る参道として紹介されています
清水焼の販売やお土産屋が軒を連ねていると紹介されています
三年のウワサについての記載はありません
なお、二年坂の近くにある八坂の塔を「The four-story(四重塔)」と誤記されています
和歌山県にもある!三年坂のウワサ
和歌山の三年坂で「転ぶと三年で死ぬ」という言い伝えがある
その由来は何とダジャレ
「坂で転んで“さんねん(残念)”」
「坂てころんて これはさんねん(残念)」(紀街の詠)
さらに和歌山県伊都郡には
「墓場で転ぶと3年以内に死ぬ」
という伝承もあるそうです
【高台寺】
高台寺の見ものは、高台寺蒔絵?霊屋?それとも...
現代
東山
霊山 の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので寺観は壮麗をきわめたという。
現在旧持仏堂の開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が国の重要文化財に指定されている。 秀吉と北政所を「霊屋 」に祀り、北政所像の下はその墓所となっている。須弥壇 と厨子は華麗な蒔絵装飾が施され、桃山美術を代表する「高台寺蒔絵」として知られる。開山堂を中心に東西に広がる池庭は小堀遠州作と伝えられる。
MICHELIN Green Guide
Kodai-ji ★★
北政所(ねね)と豊臣秀吉の関係や
高台寺創設に経緯などの説明がある
ねねと秀吉が祀られている霊屋は
Otama-ya ★ とされている
また小堀遠州による庭園は
Garden ★★ と高評価されている
さらに高台からの眺望は墓地と建物との不思議な調和の美として
view ★ とされている
【円山公園】
円山公園のシンボル「祇園しだれ桜」
平安神宮から歩いて円山公園へ🚶🏻♀️
— そうだ 京都、行こう。事務局【JR東海公式】 (@souda_kyouto) March 31, 2026
園内の桜は、これぞ満開といった様子😆昨夜の雨にも負けず見事な風景が広がっていて、どこを切り撮っても美しい📷
祇園しだれも圧巻の姿で咲き誇っています!🌸局員#そうだ京都行こう pic.twitter.com/4vnovzGpIq
【2026年3月25日~4月5日】祇園しだれ桜を堪能するルシェーヌのディナー
— 長楽館【公式】since 1909 (@chourakukan) January 6, 2026
◆観桜ディナー
長楽館の最上階に位置する和の空間「御成の間(通常非公開)」は長楽館館内の花見の名所。… pic.twitter.com/qdeo0hcQYH
江戸時代
「真葛原(まくずがはら)」
『花洛名勝図会』(国際日本文化研究センター)
江戸期、この一帯は「真葛原(まくずがはら)」と呼ばれ、
- 北:知恩院山門付近
- 西:祇園社(八坂神社)
- 南:東大谷
- 東:東山の麓 に囲まれた広い自然地帯でした。 文人・旅人が多く訪れ、紀行文にも頻繁に登場する京都東山の代表的な遊覧地でした。
京都市文化財保護課研究紀要 第2号 2019年3月
明治維新後:公園としての誕生
● 廃仏毀釈と上知令による土地没収
1871年(明治4)、廃仏毀釈の流れの中で、
安養寺・長楽寺・雙林寺などの寺領の一部が政府に没収されます。● 1886年(明治19):京都市最古の公園として開設
没収地をもとに、総面積約9万㎡の「円山公園」が開設されました。
翌1887年には京都市に移管され、京都市初の都市公園となります。● 1912年(大正元):小川治兵衛による庭園整備
火災で失われた施設群の跡地に、
七代目小川治兵衛(植治)が池泉回遊式庭園を作庭。
現在の円山公園の景観の骨格は、この時に完成しました。Wikipedia
現代
桜の名所、円山公園内の桜の木はソメイヨシノやヤマザクラ、ヤエザクラなど約300本(2026年現在)
円山公園の園内中央には、通称「祇園の夜桜」という有名な桜があります。
正式名は、一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)といい、現在は二代目です。「初代のシダレザクラ」は、根回り4m、高さ12m、樹齢200年余で、昭和13年、天然記念物に指定されましたが、昭和22年枯死しました。
現在ある桜は、これに先立つ昭和3年に、15代佐野藤右衛門氏が初代のサクラから種子を採取し、畑で育成したものを、同氏の寄贈により、昭和24年に現地に植栽したものです。
現在の容姿は、樹高12m、幹回り2.8m、枝張り10mです。
東山魁夷の名画「花明かり」 1958年は二代目のしだれ桜
(著作権の関係で掲載できませんので画像検索でご確認下さい)
現在三代目も育てられています
MICHELIN Green Guide
Maruyama Park and Yasaka-jinjya :★
非常に貴重な種として「しだれ桜」が紹介されています
【八坂神社】
国宝の本殿「祇園造り(八坂造り)」の下には...
江戸時代
祇園社
『都名所図会』(国際日本文化研究センター)
祇園社は下河原を南面とし、鳥居は石柱にして、感神院といふ竪額あり、照高院道晃く親王の筆なり。
西南の楼門には御随身います。
神殿の中央は大政所〔牛頭天王、素盞鳴の垂跡〕 東の間は八王子〔三女五男〕西の間は〔稲田姫、本御前〕抑祇園牛頭天皇を愛宕郡八坂の郷が感神院に勧請せし濫觴は、聖武天皇の御宇天平五年三月十八日、吉備大臣唐土より帰朝 の時、播磨の国広峯に垂跡し給ふを崇奉れり。
其後常住寺の十禅師円如上人に神託あつて、 帝城守護の為貞観十一年に遷座し給ふなり。
中臣秡抄に曰、清和天皇貞観十八年、疫神崇を なして世の人疾に悩むこと以の外なり、曩祖日良麿洛中の男女を将て、六月七日十四日疫 神を神泉苑に送る、しかりしより年々かたの如くしつけて、祇園会といふなり。
神輿を置所 をば八坂郷感神院といふ寺なれば、神殿もなきほどに、昭宣公の御殿をまゐらせられて神 殿とす、祇園は尋常の殿舎造りなり、是を精舎といふ、後人又祇園の名を加へけり。〔続古 事談に曰〕
祇園の宝殿の中には龍穴ありとなん、延久の頃梨本の座主〔天台梶井御門主〕其 深さをはからんとせられければ、五十丈におよびてなほ底なしとぞ。
現代
八坂神社とは
平安京遷都(七九四)以前より鎮座する古社で、「祇園さん」と呼ばれ親しまれております。
主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)はあらゆる災いを祓う神様として信仰されており、境内には数多くの神様をお祀りしております。
全国約二、三〇〇社鎮座する八坂神社、祇園信仰神社の総本社です。
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Maruyama Park and Yasaka-jinjya :★
円山公園の西に位置し、7月の一ケ月にわたる祇園祭は八坂神社のお祭りだと紹介されています
また四条通りに面する楼門は朱色に映えて美しいと記載されています
【方広寺】
【豊国神社】
江戸時代
阿弥陀が峯 (阿弥陀峰)
『都名所図会』(国際日本文化研究センター)
豊臣秀吉廟は徳川政権により破壊されたため
江戸時代には荒廃していました
豊国神社として整えられるのは明治時代に入って後のことになります
現代
豊国神社について
当社は慶長四(一五九九)年、前年に薨去された太閤豊臣秀吉公を奉祀する為、朝廷より正一位豊国大明神の神階神号を賜り、東山阿弥陀ケ峯に創建されました。
社領壱万石、境内域は三十万坪に及び、当時の壮麗な社殿や華麗な祭礼の様子は「豊国祭礼図屏風」や様々な古記録によって知ることが出来ます。
元和元(一六一五)年豊臣氏滅亡後、幕府の命で廃祀されましたが、明治元年、明治天皇は祭祀の復興を命ぜられ、同六年別格官幣社に列し、同十三年方広寺大仏殿跡地に社殿を造営し再興されました。
大正十四年には秀吉公の夫人、豊臣吉子方(北政所おね様)を祀る貞照神社が創祀され、現在では出世開運・良縁成就の神様として全国より崇敬をうけています。
神社正面の唐門は伏見城の遺構と伝えられ、西本願寺唐門、大徳寺唐門とともに「京の三唐門」と呼ばれ、各所を豪華な飾金具や彫刻で装飾が施された桃山時代を代表する建造物として国宝に指定されています。
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